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エンドロールが始まっても誰ひとり立たない。普通ならばみんな暗所恐怖症なのかと疑いたくなるような速度で一斉に席を立つのに、今日はなぜか誰もが身じろぎもしない。これはなぜだろう? 信者だから最後に監督の名前を観て拍手とかしなくちゃいけないことになってるの? それは嫌だなあ。僕も一緒にやらなくちゃダメかなあ、とかいう疑問が浮かぶ。ちなみに僕はどんな映画でも館内が明るくなるまで席を立たないのでいつもながらにエンドロールをぼうっと眺めていた。さて、エンドロールの終わった後にまさかの次回予告映像。僕ははっとした。
「こいつら、二度目か!?」
あまりの驚愕の出来事に唖然。
隣に席を占めていた20代前半男性三人組は「あー終わった終わった」っておまえら、何度目だ!?という有様である。
さて、この新劇場版、TVシリーズから遠く離れてしまっている。序はTVのリメイクと言った印象であったのだが、破はもはや、別物であった。
主要登場人物が占める立ち位置さえも変質しているため、なんだか戸惑うのだが、まったく新しいものだと思えば別段気になすることもない。マリという登場人物が変調を与えている。自分がないと言ってしまってはいけないのだろうか、従来のキャラクタが自分自身に何らかのトラウマ、あるいは人間らしさと言う形を与えられているのに対して、マリにはそれがまだ見えない。与えられた情報は利己的であるというもの。真にエヴァを道具として使うことが出来るこの登場人物の存在は、この世界観に変調をもたらしている。
これを外部の視点として用いた場合、アクティブソナーとしての役割があるのではないかと考える。そのままでは見えないものを、何らかのアクションによって浮かび上がらせる視点。マリが潜水艦の名称を与えられていたとしたならば、これは確証に近いものになったのだが、実際は駆逐艦である。しかし、綾波型ではないという部分に於いては何らかの意図を探ることも可能かもしれない。なんの意図もないと思っておいた方が良いのかもしれないけれども。
新たな視点の存在は、嫌に浮いているのが気になる。つまりは、こんなマリみたいな性格ならこの映画を観にこないだろうって僕は思うわけで、つまりはマリは絶対的に他者として存在しているわけであるのだから、浮いているのは当然なのだけれども、なぜそんな異物を投入したの? って言う疑問に対して、冒頭に書いたようなすり寄ってくる「観客がキモイから」っていう回答があった場合、僕はステキだなって思う。
逆に、こんな性格に見えるマリだけど、本当はみんなと一緒なんだよって言うようなスリ寄せがあったとしたら、がっかりしてしまう気がするんだ。
ちなみに僕は傍観者たる存在が好きなので、主要登場人物が良いなとか思うことはほとんどないのだけれども、この破においての綾波レイは異常なる存在感を放っていて、シンジ君が覚醒させちゃうのも無理ないよな、って正直思うところでありました。
お金がなくなってしまった。何故にもこんなに貧乏なのだろうか? いつの間にか、部屋の中には本や漫画や雑誌が増えているし、レンタルしてきたDVDをちょうど今、PCで見ながらテキストを組んでいるのだけれども……。まったく理解できないことだが、お金が無いのである。
『300』
ちなみに、観た映画は2点である。『300』は爽快感あふれる暴力表現にあふれている作品ではあった。いわゆるテルモピュライの戦を主題とした映画である。レオニダス王下、ギリシアは大国ペルシアに攻め込まれることになる。ペルシア戦争である。ギリシアの自由市民による兵士VSペルシアの奴隷による兵士という形を前面に押し出した映画であった。ペルシアの支配地域は現在、イスラム圏であるのは義務教育終了程度の歴史教育を受けていればお分かりのとおりである。一方、ギリシアはその統治方法は種種あるとはいえ一応は自由市民からなる統治をしている。この形式を現在に当てはめてしまうのはどうかと思うのだが、何らかの思惟が働いたと考えてしまうのは仕方が無いことであろう。
そのことは、スパルタの社会が、スパルタ教育を中心とするエリート教育に特徴を持つ社会であるという部分がマッチョな表現で済ませられてしまっていることからも想像してしまうところである。スパルタが度々行った奴隷階級(ヘイロタイ)への夜襲などの非人間的行為が社会的慣行となっていた(らしいよ)ことなどには一切触れていないし、同性愛問題にもノンタッチ! マッチョな国っていうイメージを損なってしまうからね。
でも、『300』は面白かったよ!
http://wwws.warnerbros.co.jp/300/
『ダイハード 4.0』
もう一個はマクレーン警部! ブルース・ウィルスの髪の毛がなくなってしまうという衝撃の映画! 今度の戦いはネットだぜ! ハッカー青年と一緒にマッチョな刑事が戦います。ウヘーとかヒエエとか言いながらもしぶといマクレーンはまるで台所に住ま暗黒の生物かのよう。新聞紙を丸めて構える悪役からしてみるとイライラのし通しでしょう。コロンボが口でイライラさせるのに対して、マクレーンはマッチョでイライラさせる。友達がいなさそうな刑事の2大巨頭ではなかろうか。
でも、本当にあんなハッカーいるのかなあ。あんなに色んなことができるのならハッカーにならなくちゃならないよね。だって、色々できるんだよ。すごいなあ。でも、ハッカーってすぐに射殺されちゃうかわいそうな役の方々でしたねー。
http://movies.foxjapan.com/diehard4/
(音声注意!!)
給料日まだ遠いなあ~。
なぜか何度も来ている一部の方々、今年もご愛読をよろしくお願いいたします。
また、妙な検索キーワードで来てしまった少数の人もまたきてね!
スタジオボイスがジャンプ特集!
『スタジオボイス Vol.386 2008年2月号』はON ENTERTAINMENT COMICS! 「少年ジャンプ」というジャンル!っていうことで表紙はケンシロウ。実は少年ジャンプを購読した経験のない私は最盛期のジャンプ世代の一人としてはとても間違っているのだが、それでも少年ジャンプを読んでいた。ドラゴンボールの連載当時に小中高という時代を経た人間としては当然過ぎる帰結である。それでもドラゴンボールは読み飛ばしていたのだが・・・。こち亀の面白い知識がよかったね。GIジョーの歴史とか面白かった。メインとしての富樫やら和月やらは嫌いでしたねー。
そんな少年ジャンプの漫画で面白いものをちょっと紙面から拾い出してみよう!
『ワースト』 小室幸太郎 1970~71年 手塚治虫の弟子。公害汚染のためになぜか大人が怪物に! 日本版ゾンビともいえる漫画。単行本はちょいプレミア価格であったが、現在愛蔵版として流通再開。
『ストップ!ひばりくん!』 江口寿史 1981~83年 連載もストップしてしまい、未完。現代版とりかへばや物語というか、美少女の男の子ひばりの物語。ギャグ漫画の絵を向上させてしまった作品として罪深い?
ところで、Booksコーナーで越川芳明が『ラナーク』を「アンチ・ケータイ小説!」って書いてます。そうだ、われわれはアンチ・ケータイ小説で戦っていかねばなりません!
コスタ・ガヴラスの娘、ジュリー・ガヴラスの映画公開目前!
一月後半は面白そうな映画がいっぱいやりますねー。その中のひとつに注目!
『ぜんぶ、フィデルのせい』 1/19 恵比寿ガーデンシネマほか
http://fidel.jp/
1970年代パリ! 豊かな生活を送っていたアンナの父母が突然赤化! アンナはフィデル・カストロに大憤慨! っていう内容らしい。
監督は、あの『Z』のコスタ・ガヴラスの娘! ジュリー・ガヴラスだっていうのですからもう、絶対見に行かなければなりませんね。関連でコスタ・ガヴラス作品のDVD-BOX化希望。予約特典は裁判官の木槌で!
おっと、飲みにいくのでこのあたりで筆を置きましょう。
今年もいっぱい面白い作品を消費しましょう!
『ミリキタニの猫』というドキュメンタリーなのだ。
監督のリンダ・ハッテンドーフが路上で猫の絵を描いているジミー・ミリキタニに出会って映画ははじまるんだ。ジミー・ミリキタニは年老いたホームレス。名前から分かるように日系人なんだけどWW2の時、収容所に送られてしまったんだ。
日系人は敵性市民だからってことで、みんな収容所に送ってしまったという暗い過去の生き証人だったわけだ。
ジミー・ミリキタニは姉と別々の収容所に送られた。その時に別れたきり、ふたりは何十年も会っていない。姉が生きているかどうかも分からない。
画家になりたかったのに収容所暮らしでは絵を世に出すことも出来ない。
収容所では強制的に合衆国市民権を剥奪されてしまう。
アメリカを汚い政府って何度もののしるミリキタニ。
アメリカなんかから年金を貰いたくない! って頑ななのは、老人は頑固なものだ、という世の理だけじゃないと思えるよね。
今、中東系アメリカ人が殺されたり、経営するお店が焼き討ちにあったりと昔日の日系人に対するものと同じことが起こっている。
リンダ・ハッテンドーフは何とかミリキタニの日系人問題と中東問題を結びつけようとする。「真珠湾」と「9.11」っていうわけだ。ドキュメンタリー監督として当然のことなんだけど、ちょっと押しつけがましい気がするね。
でも、リンダ・ハッテンドーフのおかげでミリキタニは歩き始めることが出来たんだから、まあ、良いんだけどね。
現代の大きな国際問題と日系人のミニマルな自伝。リンダ・ハッテンドーフとジミー・ミリキタニ、ふたつの軸を持っている映画だから面白いのかな。