「私はエレーヌが私に「手をかける」ことを望んだ、あるいは私との関係で去勢不安を招く母親さながらの行動をとろうとしたという印象を一度も受けたことがない。」(『未来は長く続く』ルイ・アルチュセール 宮林寛訳 河出書房新社)
2002年の冬、一冊の本が出た。アルチュセールという人の自伝です。
この人は哲学者でした。マルクスが廃れてしまったときに構造主義という方法を使って現代風に解釈をした人です。または、「手にかける」印象を受けなかったにもかかわらず、手にかけてしまった、つまりは妻殺しの狂人であるところの人物でもあります。なんと複雑で理解不可能な行動なのでしょう。読んでいても彼が妻を殺す必要があるとはまったく思えないのです。
薄い本ではないのですが、思想書というか、心理サスペンスものなのかもしれない。
精神病院にいる哲学者! このなんとも甘美な設定! 小説ではなく事実として語られるこの設定に興奮を覚えないといえば嘘になるでしょう。
さんざん持ち歩いていたのでカバーは歪み、汚れていますがまた読まなければいけない一冊なのです。重いけれどもね。
と、こんなことを突然書き出したのは本日、予備知識無くなぜか買ってしまった漫画を読んでいてふと思ったことがあるからなのだ。
『宙のまにまに』柏原麻実 講談社
7年ぶりに戻ってきた町で、主人公の朔くん(高校一年生)には幼馴染がいた。美里というひとつ年上の女の子です。しかし、朔くんにとってはそれは天敵として認識されているものなのでした。部屋で静かに本を読むのが好きなインドア少年だった朔くんと違い、美里さんはアウトドア派&天文好きだったのです。人質(本)をとられて日々大自然かつ夜も大自然へと連れ出された朔くんは大迷惑だったわけです。
高校でやはり美里さんと再会してしまった朔くんは天文部へと入らせられてしまったのです。つづく・・・。
と、まあ、そんなことはどうでもよろしい。
どこで読んだか忘れたが、最近は「本」というものが小道具のひとつになっているようだ。特にこういった漫画や映像作品では顕著なのだ。本を読んでいる=理解できないことをしている=不思議ちゃん、といった構図ができているのだそうだ。本は不思議ちゃんが持っているべき道具である。と、いうのだ。
この説を聞くに、そうかもしれないぞ、と思う節があるのである。
本来知っているべき知識、それを人は「教養」と言ってきたわけであるが、それは現在はもはや無いのかもしれない。今や、本など読まなくても楽しいのだ。ゲーム、テレビ、映画、音楽、ケータイ(ポケベルもね)と楽しいものはいっぱいあるのだから、いまさら本なんて持ち出されても読まないのである。本なんてなんかよく分からないことが長ったらしく書いてあってつまんなーいのである。
こういった状況になると、なんであいつ(あの子)はあんなわけの分からないことが書いてある「本」とかいうものを読むなんていう特殊なことをやっているんだろうか? という疑問がわいてくるのである。読書=奇怪と映るのである。
そんなことをやっているやつは不思議ちゃんに違いない! と、そうなるわけだ。無理解とは怖いものです。
たぶん、そういう風に考える人━━少なくともそう考えようとする人(製作者)━━は本を読んでいる人がなにやら難しいものを読んでいるのだと思っているに違いないのだが、本なんて難しいことが書いているわけではない(一部を除く)。人が読んで理解できるように書いてあるのが本なのだから(一部を除く)。
電車で本を開いているきれいなOLさんが、ルーン文字で書かれた怪しげなゴート呪術の実践書を読んでいる確率は1%未満というか、ほぼゼロであるわけだ。エアコンで揺れる頭髪が気になる恰幅のよいサラリーマンの読んでいる本が、昭和初期のある邸宅を舞台にした衒学的な探偵が永遠と不要な知識を広げる猟奇的推理小説である確率も1%に満たないだろう。
だから、心配しなくてもよいのだ。本を読んでいる人のほぼ全員は反社会的な傾向ではない内容のものを読んでいるだけなのだ。彼らは不思議ちゃんではない。 ※一部の人たちはなにやら怪しいものも読んでいるかもしれないが、それは本を読まない人の中にも、なにやら危険な雰囲気の人がいるのと同じことだろう。
だから、本を持っている人を見かけてもいじめないでね (>_<)
見かけなかったような…?