ジョルジュ・ルフェーブル(1874~1959)はフランスの歴史家。
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フランス革命期の農民反乱に於ける群衆についての論文。農民が日常生活の中の関わり合いの中で形成させる「集合心性」を中心に群衆が革命を遂行することが可能だったかを論じる。
革命を行った群衆は個々が自発的に革命遂行という意識を持っていたと言うのが、古い歴史学の考え方だったらしい。それを批判する形でルボンが、群衆はほとんど動物がそうであるようにひとりのリーダーによって煽動され、革命を行う群衆となった、という説を唱えた。
だが、ルフェーブルはその中間をとった。日常的に関わり合いを持っていた農民、つまりそれはミサであり、村祭りであり、農作業そのものであったのだが、それらの農民同士の関わり合いの中から生まれる集合心性と呼ばれる集団としての心理的紐帯がこれら革命行動を行う農民には働いていたというのだ。
古典的な考え方は、政治過程が前面に出ており、農民個々人がまさに歴史の主役として自覚的であったというような画一的な考え方であった。ルボンは人々の集団を動物の集団と同一視しており、人間の意識や社会的な部分を排除しているように思える。
ルフェーブルは「集合体」(純粋な群衆。目的意識のない単なる人の集まり)「半意識的集合体」(集合体と結集体の間の様々な状態)「革命的結集体」(目的意識を持った人の集まり)という三段階に群衆を分け、そのそれぞれに集合心性が深く関与していると考える。
革命的結集体は、アリストクラート層という支配階層が謀略を張り巡らせているというデマに対する反応として存在した。典型的な敵を認識することで結集体は強固になる。
俗に言えば共通の敵に対することでまとまると言ったところであろう。強固な群衆は、集合心性の持つ価値観の平均化によって流布され、革命は全国的な価値観となる。価値観が出来ることによって、革命は成功に結びつく、と。
すごく簡単に言えばこういうことなのだ。
と、まあ、そんな感じなのだが、結集体は中に敵のスパイが入り込むことを激しく嫌う。すると粛正が起こったりする。ロベスピエールやらスターリンやら、枚挙にいとまがないわけだ。
このルフェーブルの集合心性ってのは、ある社会という枠を考える場合、なかなか興味深い。仲間の中、学校の中、会社の中、インターネットの中、それぞれに集合心性は働いているのだろう。イジメ問題やサービス残業、汚職、2chの祭りと呼ばれる盛り上がりなどは、規範の薄れがいつの間にかその社会内で共通の意識となり、その社会では「許される」ものとなったから起こるのだ。その社会が、他の一般的な社会の常識でなくても別に関係はない。関係し合う仲間同士が許すのならばそれは許されるべきものである。ただ、国家、国際社会などというより上位の社会がある現代に於いては許されざるものなのは当然のことではあるが。
現在の複雑な社会状況を考えるに、帝国だろうがマルチチュードだろうが結局は社会が存在し、その社会の中では集合心性が働き、それぞれ色々な形にローカライズされていく。まさに多様性なわけです。グローバルだ何だかんだって言う議論に対抗しうる力があるかも知れないよ、集合心理には。って思いましたねー。