本を二冊と雑誌を一冊を買った。財布の中にはそれを買う金がないのでカードで買う。『荒地の恋』の荒地はあの荒地なんだよ、と。そう聞いて買ったのがねじめ正一の本だ。家に帰ったもののぱらぱらとページをめくってみて、確かに荒地はあの荒地であると確認するに留めたままベッドの脇の本の山に積んだ。
ベッドの脇には先日実家より持ち帰った本や最近買った本が十冊ほど置きっぱなしになっている。眠る前に適当に手に取り、睡眠前に少しずつ読み進んでいるのだが、読むよりも溜まる方が早いのが現状だった。
山がひどくなると書店の外皮を外し、書架に収めるのだが、書架はもうその許容量を超えようとしており、書架の前に山がふたつほど出来ている。
買った翌日は休みであり、本と新聞とを脇に抱えて家を出た。
休日は喫茶店をうろつきながら新聞に目を通し、本を読みふけていく。そんな一日を今日もはじめるのかと思うとうんざりする。バス停で強風に煽られる新聞を押さえつけながら目を通しているとベンチにぐったりとした調子で座り込んだ同年代の男と新聞がぶつかり、ぶつかっているのが分かっても少しだけ避けるだけでそれ以上避けずに新聞を読んだ。新聞は強風で煽られ、たびたび頭を垂れている男に触れたように思う。
バスでN駅に着き、さてどうするかと駅前から商店街へと向かう。銀行で金を下ろそうと考えながら歩いていたのだが、脚はゲームセンターへと向いていた。預けて置いたメダルを出してぼんやりとゲームに興じる。ビデオゲームは不得意なのでもっぱら競馬ゲームとメダルを押し出すタイプのゲームで遊ぶのだが、生憎競馬ゲームは満席だった。何も考えずにメダルをスリットめがけて落とすというゲームに興じる。二度大当たりしてメダルがまた増えてしまった。再びメダルを預けて店を出る。勝ってもあまりうれしくないのはまたここに来なければならないと思うからだった。この歳になってゲームセンターで遊ぶというのはどういうものかと思うし、時間を潰すという以外にその意味も見あたらない。それなのにメダルがたくさん預けてあると記憶しているとそれならば遊ばなければ損ではないかとも思ってしまう。
本と新聞を小脇に抱えて店を出て、電車に乗った。
電車の中で本を読み始める。
『荒地の恋』は北村太郎を中心に、田村隆一、鮎川信夫、中桐雅夫など荒地派の老年を描いた小説だった。島尾敏雄を彷彿とさせる前半に飲み込まれ、吉祥寺駅で降りてもしばらく歩きながら読む。
何軒かの本屋を渡り歩き、外口書店のワゴンで富士見ロマン文庫を三冊ほど買う。喫茶店に入り込み、さて、と、続きを読み進める。
北村太郎と田村隆一の友情が、痴情が絡んで尚も続いていくという強いものであったことに強い感銘を覚える。間にいる鮎川信夫がスナフキンさながらのノマドとも言うべき位置を占めている。人間の関係性の濃厚であること、荒地と言う雑誌が休刊後も詩壇の中心であり得た理由が、否、荒地に集った詩人がその後も結びつきを保っていたことが詩壇を成長させていたのだなと感じる。
老齢の詩人の不倫というスキャンダルは確かに興味をひく内容ではある。だが、それよりも読み終わって感じるのは詩の低迷する現代を、荒地派のいなくなる姿を通じてかすかに臭わせることのように思える。北村太郎を主人公に死への道書くなんて、なんだか似合いすぎている。
読み終えて、本を書架に収める。そして、北村太郎の詩集でも読もうかな、と、詩のコーナーに手を伸ばす。書架に本があると言うことは、こういうことなのだろう。
また、『小説尾形亀之助』正津勉/河出書房新社もやはりこの十一月に刊行されている。ベッドの横に積まれた本を読む為に休日を喫茶店で過ごすことをやはり毎週のように続けることになるのだろう。